エルエルロック

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幻惑奇音譚

創造の中へ没するということ・・・「チャー坊遺稿集」刊行に寄せて

1991年の法政大学でのライブを、僕は観ることが出来なかった。ゆえに、翌年の川崎クラブチッタには、どうしても行きたかったのだ。

村八分。VIVIDからの再発を手に入れよう、としていたとき、周りから「あれは本領を発揮したものではないから聴いてもしょうがない」と言われ、発売時には買わなかった、という経験もある。そのときには、友人がレコードからダビングをしてくれて、しばらくはそれを聴いていた。結局「ライブ村八分」は大学に入ってから購入したのだった。

大学で作ったバンドでは、村八分の「あっ!」と「どうしようかな」をコピーした。富士夫さんのギターは相当コピーさせてもらったし、チャー坊の歌詞にはショックを受けたものだ。

それ以前に、村八分はルックスがいい、と思った。グラム以前にすでにステージはグラムロックそのもの(写真でしか知らないが)。「ロック」という意味では、僕の中では日本最強である。申し訳ないが、超えたバンドはそうはいない。僕も、当たり前のように超えることは出来なかった。

チャー坊の歌詞が飛びぬけているのは、言葉を「音」として捉えているからに他ならない。

今も昔も「歌詞が聞こえない」だとか、「何々を主張している」だとか、素人臭いうんちくたれる馬鹿がいる。音楽で「言葉」聴いてどうする?百歩譲ってそれも「あり」としよう。音楽に言葉をのせよう、とするなら、「音」と「言葉」は互いに響きあう関係にならなくてはいけない。本当にそうでならなければいけない。これは、おいそれとはできないことである。70年代以降、曲と歌詞がうまく融合できた楽曲ってないんじゃないか、と思うくらいきかない。

チャー坊は70年代初頭に、「素」でそれを実現できた人だった。そのためには「造語」も出てくるし、歌詞自体はなんら脈絡がなさそうにも「響く」。大事なことは「言葉が響いてくる」ということである。響いてくる、と感じた時点で、言葉は音となり、音楽の要素のひとつになる。

「キャロル」は要所要所に「英語」を入れることでロック的な「ノリ」「リズム」をカバーしようとした。村八分(チャー坊)は日本語を「音」に分解することで、「日本語でロックが出来る」ということを実証してみせたのである。

チャー坊の「遺稿集」が刊行になった。クラブチッタでのライブの時、チャー坊の「詩集」を売っていた。なぜ、僕はその時購入しなかったのだろう。ずっと心残りだったが、今回の刊行でそれが解消されることとなった。本の中にはチャー坊の略歴も載っていて、「創造」という宇宙の中を生き抜いた軌跡を知ることができる。それは、これ以上はない、と感じる「芸術家」としての生き様だ。ただ、もう少しでいいからコンスタントに作品を発表できていたら、と思う。

どう思うかは、人それぞれの判断だ。

■追記(2005年11月3日)

山口冨士夫著の『村八分』が発売になった。今までほとんど伝え聞くことのなかった「村八分」というバンドの一端が明らかになった。ただ、新しい事実、というものも思ったほどにはない。今まで「伝説」としか認識できなかったことが、山口氏の口から事実としてまとめられた、ということである。

しかし、それが村八分という日本最大級のロックバンドの価値を落すことにはならない。むしろ、ようやく「既成事実」としてそのバンドの存在が確定した、ということだろう。

でもやっぱり唯一の公式アルバム「ライブ村八分」は山口氏によれば駄作なんだよな。

また11月21日には「村八分ボックス[Limited Edition]」も発売になる。2万円は払う価値があるだろう。ドロップアウト必至の覚悟で聴け。

幻惑奇音譚「創造の中へ没するということ・・・「チャー坊遺稿集」刊行に寄せて」終わり

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